城北法律事務所 ニュース No.81(2020.1.1)


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〈弁護士に聞きたい〉どうして弁護士になったの? 高校時代、モヤモヤと考えるうちに

弁護士 野口 景子

「炭鉱じん肺」という言葉をご存じでしょうか。石炭などを掘り出す現場で舞い上がる粉塵(ちり)を吸い込み続けることで発症する病気です。進行すると息を吸っても酸素が体内に取り込めず、もがき苦しみながら亡くなっていく悲惨な労働災害の一つです。

私が生まれ育った佐賀県の隣、長崎県で、1979年、全国で初めてじん肺被害の企業責任を問う裁判が起こされました。北松じん肺訴訟と呼ばれています。

私の母は法律事務所の事務局の立場からこの訴訟に関わっており、原告団・弁護団・支援者の集会の運営のために時には泊りがけで仕事に向かっていました。幼い頃の私は、そんな母について回って集会会場や懇親会会場に何度も顔を出していました。母を仕事先まで追いかけていくほど甘えん坊の末っ子だったのです。

会場には誰だかよく分からない大人が大勢いて、ただ、みんな会場を走り回る私のことを温かく見守っていてくれたような記憶だけが残っています。

会場にいた大人たちは弁護団の弁護士や共に働く事務局の他、じん肺を患った原告本人やその家族・遺族、そして支援者たちだったこと、じん肺がどのような労災であったのか、北松じん肺訴訟が悪名高い高裁判決を乗り越え、最高裁で差戻判決をもぎ取り、福岡高裁差戻審で勝利判決を得たこと、私がこうしたことを改めて知ったのは、高校2年生のときでした。

2002年5月、母に誘われて「北松じん肺根絶の碑」の除幕式に参加しました。風は強いものの、暑くもなく寒くもないよいお日柄でしたが、除幕式に参加した元原告、つまり元炭鉱夫はわずかお一人。4人ほどは体調不良で参加できず、残る原告はみんな亡くなっていたのです。顔もよく覚えていない炭鉱夫たちが、家族を残して早すぎる死を遂げたこと、日本の高度経済成長をエネルギー資源の側面から支えた炭鉱夫たちの多くが救済を得られないまま亡くなったこと、それを放置してきた国や企業の非道さに言葉を失いました。

他方で、当時通っていた県立高校では、生徒が「こんな校則はおかしい」と教師に物申しても「お前が言っていることは正しいけど、そんなんじゃ大人になったら社会で生きていけないぞ」と平然と同調圧力を強いられる教育環境でした。「おかしいことをおかしいと言える大人が少なすぎるから、理不尽な目に遭う人がいたし、理不尽な目に遭ったまま放っておかれたんじゃないか」そんな漠然とした思いから、半年後には文学部から法学部へ志望先を変更し、弁護士を目指すようになりました。

熊本での司法修習中、家事事件を多く担当する弁護士の元で学んだこともあり、思いがけず離婚や相続、成年後見等の家事事件のご依頼を多く受ける弁護士となりました。しかし、どんな事件でも、何年経験を積んでも、常に「おかしいことをおかしいと言おうと頑張っている人の支えになれているか」という原点を忘れていないかと、今でもふとじん肺根絶を願った記念碑を思い出します。

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