城北法律事務所 ニュース No.82(2020.8.1) 創立55周年記念号

〈新型コロナ関連〉コロナと憲法〜緊急事態条項と緊急事態宣言について

弁護士 久保木 太一

今春より、新型コロナウイルスが猛威を振るい、人々の生活に甚大な影響を与えています。

コロナに脅かされているのは、多くの人の健康と命です。それに加え、コロナは、人々の収入を断ち、経済的な面からも人々を苦しめています。コロナは、政治と民主主義の在り方に対しても一石を投じたのです。

本稿では、コロナが提起した政治と民主主義についての多くの問題の中から、緊急事態条項と緊急事態宣言に絞って述べます。

1 コロナと緊急事態条項

政府が新型コロナウイルス感染症対策本部を立ち上げた当日、自民党の伊吹文明衆議員は、「憲法改正の大きな実験台と考えた方がいい」と発言しました。

安倍首相を含む改憲派が「コロナ改憲」によって条文の追加を狙ったのが、緊急事態条項です。

緊急事態条項とは、有事に憲法(人権)をいったん停止し、内閣に権限を集中させる手段です。つまり、権力者を縛るルールである憲法(人権)を、有事の場合に権力者が無視してもいいということを認めるものです。

それでは、コロナ対策に緊急事態条項は必要なのでしょうか。

以下でも述べますが、緊急事態「条項」と緊急事態「宣言」とは全く別のものです。

過去の例や他国の例を見てみれば、緊急事態条項の指す「緊急事態」とは、有事、すなわち戦争・紛争状態のことです。主に有事の場合に、国の危機を政府が宣言することによって、憲法(人権)の無視を正当化する手段が緊急事態条項の役割なのです(太平洋戦争下で国民に強要された「欲しがりません勝つまでは」の精神に近いかもしれません)。

ドイツにおいて、自らに反対する勢力を弾圧するためにヒトラーが濫用した緊急事態条項は、大日本帝国憲法には存在していたものの、平和主義の日本国憲法ではあえて削られています。

その緊急事態条項を、改憲派は、「緊急事態」=「有事」という本来の性質を隠しながら、東日本大震災後には「緊急事態」=「大震災」として、今回のコロナ禍では「緊急事態」=「感染症流行」として、そのときどきで国民ウケをする「緊急事態」を選びながら、その必要性を主張し続けています。

振り返ってみると、安倍首相の改憲のターゲットは教育無償化、9条自衛隊明記、緊急事態条項、とその場その場の情勢に合わせて移り変わっており、どの条文でもいいから早く改憲をしたいという思惑が如実に表れています。

政府に求められていたことは、コロナ情勢をチャンスと見て不要不急な「コロナ改憲」を目指すことではなく、立法その他の手段による適時適切なコロナ対策であるはずです。国民の生活が党利党略より後回しになることには憤りを感じずにはいられません。

2 コロナと緊急事態宣言

今回のコロナ禍で、政府によって出されたのが「緊急事態宣言」でした。

これは、憲法に基づくものではなく法律(コロナ特措法)に基づく点、憲法で保障されている権利(人権)を停止しない点等で、緊急事態条項とは大きく異なるものです。

とはいえ、緊急事態宣言も、外出自粛要請などによって人々の権利を制限するものであり、実際に人々の生活に多大なる影響を与えました。とりわけ、経済的に大きなダメージを負った方は少なくないはずです。憲法29条の精神を鑑みても、外出自粛要請と補償はセットでなければならないのは当然です。

しかし、ここで注意しなければならないのは、コロナ特措法に補償を命ずる規定はなく、補償をするかどうかは政治的判断に委ねられている、ということです。このことは、仮にコロナ特措法に「外出禁止」などのさらに強い効果があったとしても同じことです。

政府与党は、当初、補償に対して極めて後ろ向きでした。返済義務のある有志による支援にこだわり続けていたのです。一律給付金も持続化給付金も、国民世論と、世論と結びついた野党の働きかけによって、政府の誤った政策がただされ、(「アベノマスク」配布決定に遅れて、)ようやく実現したものでした。

3 最後に

緊急事態宣言下において、「命綱」となる補償を実現したのは、国民世論、すなわち、民主主義の力でした。

緊急事態条項は、民主主義を停止して政府に権限を集中させるものです。ひとたび緊急事態条項が発動されてしまえば、国民に有無を言わせぬまま、政府の独断で物事が進められることになります。もしも憲法に緊急事態条項があり、今回のコロナ禍において発動されていたとすれば、補償を拒否する政府の姿勢をただす機会もなかったかもしれません。

コロナ禍における教訓は、危機的な状況を対処するために必要なのは、民主主義を停止して政府に権限を集中させることではない、ということです。むしろ危機的な状況にこそ民主主義を徹底的に機能させ、政府を監視することが必要である、ということがはっきりと見えたのではないでしょうか。